昭和40年12月17日 朝の御理解
皆さん、こうして朝晩、朝のお勤めさして頂きます。夜のご祈念を奉仕させてもらいます。そういうご祈念をさして頂きます時に、最後に天地書附を一同で奉唱いたします。生神金光大神様、天地金乃神様有り難うございます。この、生神金光大神様、天地金乃神様有り難うございますとこういうのがですね。私は、口癖になってはいけないと思うんです。もうそれが何の感情もこめられないで、唱え上げておると言った様な事では、いけないと思うですね。
生神金光大神様、天地金乃神様、今日もおかげを頂きまして有難うございます、私はそこのところがですね、本当に感情を込めて、真心を込めて有り難うございますが言えれる様になり、最後に天地書附を奉唱致しますときにです、『生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり』と二回繰り返して奉唱いたします時にです。本当にそうどころではない、そうどころではないといった様なものが。
皆さんの、心の中に奉唱するたんびに感じられるでしょうが。本当、金光様のご信心は此処に尽きるのだ、おかげは和賀心にあるのだ、おかげは和らぎ喜ぶ心にあるのだ。この体験が生まれてこなければ、金光様の信心の有り難いということは分かりませんですね。只、参りよります、拝みよります、お願いをしよります、いよいよの時にはお伺いをさして頂いて右左に決められるといった様な事だけがです。
お道信心を頂いとる者の有り難さといった様なものであったら、非常にこれは浅いものになるです。生神金光大神様、天地金乃神様有り難うございます。本当に、有り難うこざいますとお礼を申し上げる、それが実感を込めてそれが実感をこめて言えれる様になり、天地書附を奉唱さして頂きます時に、成程おかげは和賀心にあるどころじゃない、和賀心にあるどころじゃないと思わせて頂けれる。
私は、天地書附奉唱にならなければならないと思うですね。皆さん、ここんところの実感のある方でなからんと、今日、私が皆さんに聞いてもらおうということは分らんと思うですね。これはもう、もう私の信心の中心と言うてもよいことですから、皆さんが、もう何百回とはなしに聞かれたお話なんですけれども、神様を大事にとか大切にと、ということはどういうことかというと。
神様の働きを大切に大事にすることだと思うんですよね。神様有り難うございます、その神様を段々分からしてもらう、その神様を尊ばせて頂くとか、大事にさして頂くとか、又神と仲ようする信心ぞと仰る、その神様と、本当に仲ようさして頂けれるということはです、その神様の働きそのものを大事にすることだと思うんです。私共の上に、様々な雨が降ったり、風が吹いたり、又は、雪が降ったり致しましょう。
それがそのまま、私共に対するところの、神様の働きかけなのです。頭が痛い、腹が痛い、腹の立つことが起こってくる、嬉しいことが起こってくる、それは、全部天地の親神様の私共への働きかけなんです。その、神様のお働きそのものをです大事にさせて頂く、それを、有り難く受けさせて頂くでなければ、神様と仲ようすることにならんのであり、神様を大事にしておるとは言えません。
いかに、有り難そうに般若心経をあげても、どんなに声高らかに大祓いを奏上させて頂いても、いかに有り難そうにご祈念をさせて頂いとりましても、それはお道の信心でいうならば、それは、それだけで神様と仲ようしておるとは言えないと私は思うのです。そこのところを、教祖の神様は実意丁寧に頂いておいでられたわけなんですね。実意丁寧にそこのところを取り組んでおいでられたんです。
これは私がもう、私の流儀のごとなってしまっとる。実はそうじゃないんですけれども、私はそこんところを頂いておる。神様を大事ににする、神様を尊ぶということは、神様の働きそのものを大事にすることなんだということ。それを合掌して受けていこう、喜びで受けていこう、元気な心で頂いていこうと、そこで、その私共の心がです、そういう働きをそんなら、現在の心で頂いていったんではいけないのですね。
よりましな心で受けていかなければいけんのです。又、でなかったら受けられないです。そこに、日々の改まりが第一とか、『信心は本心の玉を研くものぞや』とかという、そういう御教えに本気で取り組ませて頂いて、私共がね、日々自分というものを本気で見極めさしてもろうて、改まることに研かして頂くことに努めてしてもらう。そこから、生まれてくるところの和賀心。
和らぎ喜ぶ心を持って、それ、受けていこうというわけ分けなのです。そしたらです、どういう結果が出てくるかということです。ここにはね、もうありがたづくめの答えしか出てこないのです。実を言うたら、そこの本当にありがたづくめの答えが出てこない、ところが、そのありがたずくめのことばかり答えが出てこないところにです、いわゆる、これからの信心があるわけなんです。
お道の信心は、より有り難くより楽しゅう、ハアーこの信心を、こういう風に進めて行ったら、先々どういう、有り難いことになるだろう。先々というのは、よし私どもがお国替えを頂いて、あの世に参りましても、この信心さえ、持っていきゃあ大丈夫だという、いわば、もう、それこそ信心の、一番最高の境地と言われております、死生観が安定して来ると思うんです。
人間のその生き死にという様な、いわゆる重大事に直面いたしましてもです。これさえ頂いていけば、この調子さえ落とさなかったらということになるのじゃないでしょうかね。日々の中にです、痛いことが起こってくる、難儀なことが起こってくる、困ったことが起こってくる。いうならば、例えて、私の信心の流儀を皆さんが体得して下さるというなら、それだけのことですから見易い様ですけれどもです。
その、そこのところになってまいりますと難しい、けれども、難しいから楽しいのであり、有り難いのであるということにもなってくるのです。ハハアー、椛目で信心が、先生が言われるところの信心とは、神様が、神様を大事にするということは、神様の働きかけそのものを大事にすることだと、しかも、それをです、私共が本気で改まらして頂く、研かして頂くということに精進さして頂いて。
その精進さして頂いとるその心で、神様の働きを受けていくということがありがたいことなんだと、それだけなんだけれども。それが有り難く受けられないところにです、私共の、修行不足というものを感じ、又は、そこにどうにも出けない人間の業というものを感じます。いわゆるめぐりを感じます。いうならば、それだけのことだったら、それだけ分からして頂いて、そうですか、神様を大事にするということは。
神様の働きかけを大事にするだけですね。と それだけですから、スムーズに行きそうなんだけれどいかない、そこにいわば何と申しましょうかね。吉良上野の助が居る分けなんですよ。私共の幸せを邪魔しょうとする者があるのですよ。もう、間違いにしに、これなら幸せになれるんだということが分かるから、そうすればよいのだけれど、そうでけないところに、それを、邪魔しようとする邪魔するところの。
いわば、仇が居るわけなんです。いわゆる吉良上野之助がおるわけなんです。そこに、例えば、仇討ちの苦心がある様にです。そこんところが、私は大事にしなければならんと思うのです。いわゆる、自分の業の深さ、めぐりの深さというものを分からしてもらう。そして、このめぐりのお取祓いが段々頂けて私の心の中に、成程、おかげは和賀心にあるんだなあと、朝晩ご祈念さして頂く時に。
生神金光大神様、天地金乃神様有り難うございますと、その有り難うございますが、実意を持ってお礼が申し上げれる。朝晩奉唱させて頂くところの、天地書附がそうどころじゃない、そうどころではないと、こう実感させて頂けるところまで、お互いの信心を高めていかなければ、そうどころではないおかげは和賀心にあるのだ、おかげは和らぎ喜ぶ心にあるのだ。けれども、その和賀心というのがなかなか難しい。
それは何故難しいかというと、そういう和賀心になることを邪魔する様な働き、幸せになろうとすると幸せにするまいとする様な働き、それを、私共は業という。仏教的に言えば業であろう、私どもはそれを少し意味は違うかも分かりませんけれどもめぐりという。そこで、そのめぐりに取り組ませて頂く、高橋正雄先生の言葉を借りると、自分を見ること、自分を見ることということを繰り返しておられます。ね。
見ること見ること自分を見ること、そういう風に言うとられます。成程、自分の心の中にこういう汚い自分の心の中に業が、めぐりが住んでいるんだものねぇ。それを討ち取らなければ、それこそ仇討ちをする様な思いで、それを本気で討ち取らなければ、討ち取るは難しい、されど茗苛かな、それを討ち取っていくということにです。そこに、喜びの妙というものがいただけれれるところの楽しみを求めてです。
そのめぐりに向かって、私共が突進するのです。日々それに取り組んでいくのです。信心はここのところになってくる時に、いよいよ楽しいものに有り難いものに段々なってくるのですよ。そして段々おかげを頂いて参りますと、おかげというのはです、いわゆるどの様な中にでも有り難い、有り難いという答えしか出らんごとなっておるところに、有り難い答えだけではない、嫌なことやらの答えが出てくる。
そこに私共のこれからの信心、これからの信心があるのです。そこに、又、元気な心も必要なのです。ですからこそ又楽しみなのです。昨日、四時久富先生が下がられる頃でした。急にお腹が痛み出すんですね、だから、もう一生懸命押さえてもらいました。そしたら、段々楽になってからそのまま痛いまま眠ってるんです。そしたら、お夢の中にですね、家内が誰かにですね、お鏡さんの切ったものをですね。
こう何かいらんもんばしやるごと、やっとるところを、お夢ともご心眼ともつきませんけれども頂くんです。ハアー本当におかげを頂きまして、月次祭たんびにお鏡さんを頂きますもんですから、ね もう少し飽きが来てるんですよ。取扱いが粗末になってるんですよ。そして、ほら、もう頂きあわせん内に次のお鏡さんが下がってくるもんですから、それを、その誰かにすまんばってん食べてくれんのちいうごたる風でですね。
やっておる様なことがありはせんだろうかということですねぇ。お供えというものはね、氏子が真心でお供えをする。それを、お取次の者が一生懸命でお取次をさしてもらう、それを、お下がりを頂く、それは、お金であろうが物であろうが、食べ物であろうがこれを神様のお下がりとして、一生懸命で頂くというところに、頂くものも助かりゃ、取次の者も助かりゃお供えをした者も助かると言うのですね。
それを、皆さんが一生懸命でお供えをなさる。お金なりお金をです。私が一生懸命でお供え、お取次させて頂いても、例えば、それを家族の者が湯水を使う様に、何にもならんことに使うようなことであったら、勿論此処のご比礼は落ちるでしょう。そこには、皆の助かりはなくなってくるんですね。これは、私共は、そこんところをほんとに厳しく思うので、厳しくおかげを頂いとるんですけども。
ことその例えば食べ物になってまいりますとお供えが、いわば椛目のお供えは、本当にすぎるほどのおかげを頂いとるもんですからついついそういうことにもなりかねない。いわゆる、昨日の、私の腹痛ということは、いわゆる、有り難いことばかり起こって、有り難いことばかり起こって来なければならんほどのに、有り難いことではない困った事が起こって来た分けなんですね。
ですから、それに、いわば取り組む分けなんです。そこに信心、私共をいわゆる見ること見ること、自分を見ることということになってくるのです。そして、神様からそういうお気付けを頂いてから、私はすぐ起きてから、ごそっと起きていってから、家内にそのことを申しました。大事にしてくれよと、ここのところを大事にしてくれよと、おかげでお腹の痛みもおかげ頂いたんですけどもです。
そういう風にして、例えば腹痛ひとつ起こしましても、頭が痛かっても、ちっと痛い思いをする様な事がありましても、そこのところを、いわば見ること見ることである、自分を見るなのである。いうならば、この時計なら時計がです、分秒違わぬ時刻を指さなければならないのでございますけれども、それが本当なんだところが、進みすぎたり遅れたり、又は、止まったりするならば。
いわば、裏をひっくり返して見なければならない様なもんです。そしたらここのネジが弛んどったとか、油が切れておったということに気付かしてもらうんです。自分の心の中に、だから、それから又、正確な時計の、いわば文字盤に現れてくる様な正確さが出てくるのです。そういう、正確なです、おかげを頂けれる様になっる、信心さして頂いたら難儀なこと、めぐりが深いもんじゃからといっておるだけで。
そのめぐりそのものに取り組もうともしないならば、やっぱり一生懸命のいわば、そういう、難儀の中になかなければならんのですよ。昨夜、ご祈念にかからせて頂こうと思いよりましたら、村内のかたが今度此処の矢作の村に氏神様が建立されなさっとったんです。いわゆる、新しく出来変わりなさったんです。そのために、私の方あたりにも三万円割り当てが来とりました。
そこで、その二回に払わなければならないことでしたから、一回は払い込んである。それを、その昨日は村内の方が集金に来てくださった。私も毎朝高芝さん にお願いしてから、その、お下がりは全部銀行に持っていってもらうんです。ところが、昨日はね、私が有り難いことには、何時も御初穂の整理をさせて頂くのに、神様からお気付けを頂いとったですから、ちっと早目に御初穂を開かせて頂いとったんです。
アハー、今日集金に来て頂いとるのが一万五千円、私が開かせて頂いとった時、丁度一万四千円だった。アラ可笑しいな千円足りんなとこう思う分けなんです。そんなことがあってよかろうはずがない、私はそう思うのです。いわば、時計なら十分間遅れとるという感じです。千円足りないのですよ。それで私はすぐ、又、ほんな今さっき御初穂整理したばっかりだから有るとは思われないけれども。
又その御初穂箱を開けて整理させて頂いたら五千円札が一枚出てきた。ハアーおかげ頂いて丁度一万五千円、したら家内が小銭がよかちいよんなさいましたよち、そうかそんならばちいって、小引出しに入れておる小使い、小出しにしておる分をこう合わせましたら一万五千円なんです。そして五千円だけころっと余ってるということになるわけなんですという様にです。そんなに正確にいかなければいけんのですねぇ。
ですから、信心さして頂いとれば、そういうおかげを頂けるんだということをです。先ず、私は頭に心においとかなければいけない。そして、そこにずれが出けたりです、ちっとお腹が痛かっても、アー、可笑しいな千円足りないなという様な場合でもです。そんなことがあってはならんのに間違う。これはおかしいなあとすぐ自分の心と、いわゆる、見ること見ること自分の心を見ることになるのです。
まあだ、私が御初穂の整理をしたばっかりですから、入ってるはずのないところにです、五千円札が入っとるでしょうが、私のチットいない間に参って来とる人がお供えをしてあるわけなんです。もう神様の働きというものはそんなに間違いがないのです。その、間違いない働きをです、私共がそれを頂き止めれない、そういう働きをです、働きとして現わすことがでけないところに私共が、神様の働きをです。
神様の働きをそのまま、神様を大事にするとか、尊ぶということは神様の働きを大事にすることだという。神様の働きを大事にするから、その様な間違いのない働きが段々頂けてくる様になるのです。これは私の信心ですから、これが昨日例えば五万円必要だということであったら、私はその困るわけでございますけれども、そこに私共の信心が段々成長していくに従ってです。
五万円といゃあ五万円、十万円といや十万円たちどころにおかげの頂ける様な、おかげも頂けるんだということを、先ず私共は知らなければいけません。今日私が申しましたことは、何時も皆さんに聞いて頂くことなんですけれども、ここんところに焦点をおいて、お互い日々の信心の稽古をさして頂かなければ、信心がありがたいもの、信心が楽しいもの、しかも、この信心さえさして頂いとれば。
いよいよ間違いのないという安心、それは、しんが先までもこの信心さえ頂いていきゃあおかげを頂けるぞという。信心のいわばギリギリの境地とでも申しましょう。その、死生観と。死に対するところの、いうならば恐怖心といったものも段々無くなって、あの世この世を通してありがたい道がいよいよ広がって、この調子を落としさえしなければ、ここさえ間違いなくおかげ頂いていけば。
間違ってもすぐ自分の裏をひっくり返してみてです。時計の裏をひっくり返して見る様に、アーここに進むもとが遅れるもとが止まるもとがあるんだということを、私共は、改まらして頂きながらです、信心を進めていくのでございますから、信心は楽しい、いよいよ幸せへ幸せへ、しかもその幸せが大きな深い広いものになっていくということを楽しみにです、信心が出来るのですよ。
椛目ではここんところをです、私自身が、ささやかながら頂いていきよる日々、ですから、皆さんも体得されるなら、ここんところを、本気で自分のものに、なされなければいけませんです。ね あれに困る、あれに難儀、あれが足りないと、いった様なことのあるはずがないです。信心しておったら、けれども、そういうことにならなければならない、又、間違い混じりけのないほどもものが。
自分自身の内容にあるということを本気でひとつそれを信じなければいけません。生神金光大神様、天地金乃神様ありがとうございます。その、ありがとうございますがです。もう、本当に実感を込めてのありがとうございますになってこなければいけんのです。朝晩唱えさして頂く天地書附の奉唱がです、生神金光大神 天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありと唱えさして頂きながら。
そうどころじゃない、そうどころじゃないと。おかげは和賀心にあるんだと言う事を、そうどころじゃない、そうどころじゃない。さあ今日もそこんところに取り組ませて頂いて、おかげを頂くぞと言う事になってこなければ、信心がありがたいもの、楽しいものになってこないと思うのですね。
どうぞ。